20221227(了) |
クレール・デュラン=リュエル・スノレール 著 |
遠藤ゆかり 訳/藤田治彦 監修 |
第1章 アンティル諸島からパリへ |
第2章 印象派の冒険 |
第3章 印象派から新印象派へ |
第4章 最後の住居エラニーと最初の成功 |
第5章 都市シリーズ |
資料編 ―永遠の印象派 |
①ピサロの手紙 |
②『社会の破廉恥』 |
③ピサロと同時代の画家たち |
④「ピサロは、まったく非の打ちどころがない」 |
――作家ミルボーからピサロへの手紙 |
年表/INDEX/出典(図版)/参考文献 |
2014年8月/創元社〈知の再発見〉双書/中古 |
<★★★☆> |
大好きな安野光雅さんの本(エッセイ)のなかで、自分の原点に近い、大きな |
影響を受けた画家、といったようなことを書かれていたことを覚えていまして、 |
最近ピサロの素敵な絵(👇)を見たために、急に読む気になりました。 |
「読む」気に、というのは嘘で、ホントは絵が大きな画集を「手に取る」「観 |
る」と書きたかったが、これが手に入れやすかったのです。 |
若い時には、ターナーやコンスタブルのイギリス系や、バルビゾン派に惹かれ |
たようで、ワタシもバルビゾン派のものが好きなものですから、それもきっか |
けのひとつ。 |
ジャレの丘 1867
この絵、すきですねぇ
ざっくりとした感じなんで読みやすかった。多くは、大成はしなかった息子(た |
ち)にあてた手紙 ~ものすごい筆まめ~ が中心になっていたものの、もろに伝 |
記でした。 |
12歳でカリブ海の小アンティル諸島のセント・トーマス島からパリに出て寄宿 |
舎生活をおくりながら勉強し、5年ほどの後に島に戻るも、絵への情熱は冷める |
ことなく、20ぐらいになってから転機となる絵画上の出逢いをする。25歳で |
再びパリに出る。そして、印象派を(新印象派を挟んだとはいえ)始めからおし |
まいまで通し、ほとんどパリ近郊でもって、不器用、生真面目に貫き通しちゃっ |
たという画家人生。いくらかわかったような気がします。 |
中で使われている言葉(支援者の手紙など)でいうと、、、 |
・誇り高く善良で立派 |
・もっと栄光に値する |
こんなのもある。これも著者じゃない、、、 |
・「やっぱり、モネよりずっと画家らしく、もっとずっと深い知性がある |
わ。モネの作品には、ロマン主義的な名残があることが多いもの。ピサ |
ロははまったく非の打ちどころがないわ」 |
・困難な人生を歩んだにもかかわらず、彼はしあわせな人間だった・・・ |
・最期の時まで、つねに陽気で、驚くほど若く、この上なく熱狂的で、長 |
老のようにどこまでも冷静で、柔和であると同時に情熱的な心を持ち、 |
立派な顔を思いやりで輝かせていた・・・ |
「アナキスト」だとか、生活に根差しているとかいう表現には、賛成しかねま |
す。こんな緩いものなら、ワタシだってアナキストでしょう。(なんて書いて |
いいのかな・・・) |
ワタシは「善良」なんて言葉がもっともぴったりきました。プラス「人望」か |
な。突飛な絵には進まなかったが、いわば狭い世界の中で、実にいろんな工夫 |
を考え試していたよう。 |
スーラの早い死でもって新印象派が終わってしまったことが、よかったのか悪 |
かったのか。どうなんだろう。「理屈」と一線を画すことになったといっても |
いいのではないかなぁ。 |
印象派の立ち上げや牽引役的存在だったのだけれど、一時抜けたものの、おし |
まいも、印象派の締めくくり役を担った形。だからこそ、この本のタイトルに |
もなったわけだ。 |
それと、記述はあまり多くはないけれど、子だくさんだった貧乏一家を、奥さ |
んがよくもまあ長々と支え続けたこと。デュラン=リュエルという画商の存在 |
と、奥さんの支えに尽きるピサロ、という気がする。 |
名だたる画家のみならず、けっこうたくさんの芸術家との接点もあったのです |
ね。そんな時代のパリだったのでしょう。モネとのスタンスの違いや友情、セ |
ザンヌとの絵画論上の不和などはわかる気がするけれど、エミール・ゾラが一 |
時擁護してくれた、逆に擁護もした、なんてぇのはちょっと意外でした。 |
マルヌ川のほとり、冬 1866
ポントワーズのオワーズ川のほとり 1872
テアトル・フランセ広場とオペラ大通り、陽光、冬の朝 1898
白い霜、火を起こす若い農婦 1887-88
ほとんどが油彩。エッチングがパラパラ。水彩、グワッシュなんてあったっ |
け。これは、という作品は、さすがにもっと大きなもので観たかった。 |
載っているのも観たいのも、ワタシは油彩。 |
そんなところでした。 |