20200516(了)
バルガス=リョサ/楽園への道
Mario Vargas Liosa/EL PARAÍSO EN LA OTRA ESQUINA
田村さと子(訳)
1、オーセールにおけるフローラ ―1844年4月
2、死霊が娘を見ている ―マタイエア、1892年4月
3、私生児、そして逃亡者 ―ディジョン、1844年4月
4、神秘の水 ―マタイエア、1893年2月
5、シャルル・フーリエの影 ―リヨン、1844年5~6月
6、ジャワ女、アンナ ―パリ、1893年10月
7、ペルーからの知らせ ―ロアンヌおよびサンテティエンヌ、1844年6月
8、アリーヌ・ゴーギャンの肖像 ―プナアウイア、1897年5月
9、航海 ―アヴィニョン、1844年7月
10、ネヴァーモア ―プナアウイア、1897年5月
11、アレキーバ ―マルセイユ、1844年7月
12、われわれは何者か ―プナアウイア、1898年5月
13、修道女グティエレス ―トゥーロン、1844年8月
14、天使との戦い ―.パペエテ、1901年9月
15、カンガージョの戦闘 ―ニーム、1844年8月
16、愉しみの家 ―アトゥオナ、ヒヴァ・オア島、1902年7月
17、世界を変える言葉 ―モンペリエ、1844年8月
18、遅まきの道楽 ―アトゥオナ、1902年12月
19、怪物都市 ―ベジエおよびカルカソンヌ、1844年8~9月
20、ヒヴァ・オアの呪術師 ―アトゥオナ、ヒヴァ・オア島、1903年3月
21、最後の戦い ―ボルドー、1844年11月
22、薔薇色の馬 ―アトゥオナ、ヒヴァ・オア島、1903年5月
解説
年譜・主要著作リスト
2008年/小説/河出書房新社/池澤夏樹=個人編集 世界文学全集/ⓒ2003
<★★★△>
すごく単純な発想で、ゴッホとゴーギャンのことを、伝記じゃなくて、小説
で読んでみようと思ったのがきっかけです。これは本当です。
それでリョサかよ!といわれても答えようがない。この本は古本屋で気まぐ
れで買い込み、ずーっとホッタラカシだっただけなんですけどね。
1800年代半ば近くに、労働運動や女性解放に向かっていくフローラとい
う40過ぎの女と、タヒチに渡って志なんぞどこへやら、腑抜けた感じの画家
に成り下がっている(かのような)ポール・ゴーギャン・・・
交互に語られてゆくんで、いったいどないな接点があるんや、と思いながら
読み進んでいきました。奇数章がフローラ、偶数章がゴーギャン。「対位法」
というそうな。これって音楽でも使う言葉。
寝る前に時々一章づつ・・・
一時期(8-9ヶ月ほど)一緒にいたゴッホは、ゴーギャンからはまったくの
キ印だったことになってる。付き合った女が完全にぶっ飛んでた!みたいな。
ま、、、そんなイメージではありますね、もともと。もっとも、この本でだ
って十分に「どっちもどっち」じゃないかと分かったに過ぎない・・・
それでもやっぱり、ワタクシメの興味の対象は「その辺」にあったわけで、
「狂ったオランダ人」とのいきさつがところどころでほんの一言づつ出てく
るのに、けっこう反応しました。 もともとの知識がないので、その感じが
「歴史的事実」から匂うものをリョサが創作的に描き出したのかどうかはよ
くわからない。でも、ワタシには、「そんな感じ」だったんだなということ
でいい・・・。第16章「愉しみの家」にたっぷり書いて(代弁して)ありま
した。
さて、フローラというのはゴーギャンの祖母。リョサはそもそもがこのフロ
ーラ・トリスタンを書こうとして、あとでゴーギャンも入れようかと考えた
らしい。フローラは伝記的に振り返りはいろいろとあるけれど、1844年が中
心。彼女が活躍したのは、広くヨーロッパと、もう一つ、母国ペルー。男の
経験が悪く、その反動として女性の解放という社会活動の方向に振れて突っ
走る。
でもとにかく、こんな時代に女性運動に身をささげる彼女を描く表現の細や
かさはゴーギャンとはかなり違っていて、危なっかしくも、密度が非常に濃
かった。
彼女は活動が少し実を結びそうな中で、壮絶な客死。
ジタバタした死なんだけれど、やはり丁寧に丁寧に描かれた感じでしたね。
ゴーギャンとほとんど同じ分量の文章で描かれるんですが、ワタシは結局
ゴーギャンのほうに注意が向いていたまんまだったか気がします。
(ゴーギャン 1893-94頃)
一方、ゴーギャンは20台の後半に入ってしばらくして、証券マンとしての
将来を棒に振った。突然貧乏絵かきになってから18年後の、1892年から死
ぬ1903年までの11年間ほどが描かれる。40代半ばから50代半ば。
祖母の祖国ペルーにも縁があって、二人のつながりにはこれがかなり大切
とある。(いやむしろペルー人たる作者にとって、かな) 金のためにフ
ランスへ戻ることもあるんだが、タヒチの女の子(複数)を妻のようなも
のにするいきさつなんかがこまごま語られたりしても、時々頑張ってみる
絵以外は、ほとんど生活の体をなさずだらしない。
パリの知り合いにまかせている絵が売れたら金が送られてくるんだが、そ
れがごくまれなのでみじめにじり貧、常に窮乏している。その貧乏具合が
どうしても印象に残るし、ああそういやゴーギャンて、確かそうだったよ
な、なんて、ちょっと思い出したりもしました。
黒いへんな帽子、どんよりした面構え、高いが曲がった鼻、たぶんかなり
大柄(?)・・・
狂ったオランダ人が自殺した後で起こったようなこと(異常に評価が上が
った!)が、自分が死んだ後に起きるものだろうか、と考えたりする。
「口にするのも憚られる病」という言い方でしか出てこない病のこともし
ょっちゅう出てきて、そのことは悔いている。梅毒のようなものだろうか。
一気に死のうとするも死ねない。でも途中からは明らかに死が遠くないこ
とを思わせる。ともあれ、高潔とは言い難く、かといって俗物という感じ
でもない。へんてこりんな(独特な)色の絵についてだけは割合真摯。
このタヒチはフランス人中心の入植地。ヨーロッパ的な価値観は持ち込ま
れているみたいなんだけれど、ご本人の価値観はまあはっきり言えばぐち
ゃぐちゃ、守っているのはわずかばかりの自尊心のみ。
タヒチから更に別の遠い島へ渡り、奇妙な友人たちに囲まれた環境で、く
だらない裁判で係争する中、視力もなくし、画家としての生命を失うと同
時に、本来の無頼のような生も返上する。でも、自分がもう死んでいるこ
とがわからないような(!)穏やかな死。
作者の筆のスタンスが変わっている。どちらに対しても、ストーリーを進
めた後は、それぞれに確認するように優しく語りかけ、話をまとめて行く
というスタイル。これが始終で、この作品の大きな特徴。
非常に独特で、読む側の背中を押し続けてはくれる。まあ作者の解釈的な
ものの表れでもあるんだろうけれど、愛情も感じました。
もっとも、フローラとゴーギャンの血の繋がり以外の繋がりのようなもの
はほとんど感じさせてくれずじまい。
フローラの死の4年後にゴーギャンが生まれているのだから、しょうがない
っちゃないんだけれど、並列する物語なんだもの、そのことは物足りなか
ったですね。
始めの3-4段で感想文は実質終わってますので、ここまで読んでもらった
としたら、こんなまとまっていないものを、誠に申し訳ないです。
ま、一応、ゴッホとの関係のイメージ(もちろんリョサのイメージ)につ
いちゃあ、少しわかった気がしたし、ゴーギャンのタヒチって、こういう
感じだったんだ、こんなふうに楽園への道が楽なものではなかったんだと
いことについては、ある程度わかった気になったので、納得の読書でした。
二人の独特の手法に繋がる物事は結局よくわからなかった、という点は、
少なからず残念ですが、そんなもん、分かりっこないのかも。
〇
リョサは、ノーベル文学賞の受賞者であることはうっすら記憶にあっても、
時の大統領選挙であのフジモリに負けたかただったなんてことはとうに忘
れてしまっていました。
〇
近所のスーパー(イオン)の3階に、胸に有名画家の様々の知られた絵を
きれいにプリントしたTシャツが、父の日用にどうぞ、という感じで並べ
てありました。これから何か読もうという気になっているゴッホの自画像
は悪くなかったのですが、フェルメールの一枚が気に入りましたね。「真
珠の耳飾の少女」より、「牛乳を注ぐ女」のほう。誰もプレゼントなんか
してくれないんだから、自分で買うしかないな、なんて一瞬考えたんです
が、買わずに帰ってきてしまいました・・・多分それを着て外へ出る勇気
がない・・・ならば着る機会がないではないか!
ゴーギャンの絵はなかったみたいでした。カラヴァッジョがあればなぁ。
(実は後日結局買ってしまいました、フェルメール)
〇
大阪の‘緊急事態’が解除、あべのハルカスの展望台が営業再開などとニュー
スでやってました。もっとも、中の各階が営業再開しても、あべのハルカ
ス美術館で4月末から予定されていた「安野光雅展」は中止が決まったま
んまでした。安野画伯、1926年生まれですから、もうお元気というわ
けでもないのでしょうな。
京都の丹後のほうにも美術館があるんですってね、最近知りました。
安藤忠雄さんの設計によるものなんで、ワタシはあまり好きではないので
すが、、、いつか行ってみたいと思います。