(帯) 混血のオペラ歌手として世界に名を馳せた藤原義江の父N・B・ |
リードの墓は、鳴門海峡と響灘を見はるかす丘の上にある。スコットラ |
ンドから日本にやってきた彼は、この海峡の町を愛し、ここに骨を埋め |
た。リードと母キクと義江、そして義江を取り巻く華麗な曼荼羅と波瀾 |
の人生を、郷土人の目で描き、望郷の十字架に捧げたい。(著者) |
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(ネット紹介) 下関の琵琶芸者とスコットランド人貿易商の混血児として |
の愛と真実。“歌に生き恋に生き”た世界的なオペラ歌手藤原義江の |
波瀾の生涯。 |
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浅草オペラの田谷力蔵さんなんかはまあ晩年しか知らないようなもの |
だけど、ああした歌い方ではとてもじゃないけれどファンにはなれない。 |
でも、藤原義江さんの歌は何かでちらっと聞いて、結構テクニックが |
あったんだなあと思った記憶がある。 |
処分品の中に見つけて買い込み、「積ん読」していたもの、急にその |
気になって読み始めたら、存外面白くて、しまいまで読んじゃいました。 |
伝記風な小説。 |
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第一章だけで半分以上を占めていて、本格的にオペラ歌手になるた |
めに留学先のミラノへ着いたところで終わる。 |
1898年(明治31年)~1920年(大正9年) |
ここまでで十分すぎるほど波乱万丈。 |
だいたい、藤原義江のことは、歌が予想した以上にうまいと思ったこ |
とがあること以外には、歌劇団の名前くらいしか知らなくて、その浮名 |
はおろか、スコットランド人とのハーフであったとか碧眼だとかすら、へ |
ーの世界。いじめられても、うじうじめそめそはしない、むしろ磊落とい |
ってもいいくらいで、柄が日本人らしくないのがやっぱり特異だと思っ
た。
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そして貧乏のつらさは知っているくせに、金はすぐに使いきる。 |
“・・・それが空になった後をどうするのかは、考えもしなかった。―― |
まあ、何とかなるだろう。相変わらず、そんな調子である。義江は、お |
のれの欲望に逆らうことができない。物に対しても異性に対してもそ |
うだった。” |
「トスカ」のアリア“歌に生き恋に生き”という面は日本にいる間にすで |
にそこそこ発揮される。 |
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22歳での留学、遅いとはいえ今でもありうる年齢だとは思うが、正式 |
な教育をほとんど受けたとはいいがたい状態だったという印象なのが |
むしろ驚き。こんなんで留学ってねえ、これは今ならあり得ない。それ |
とも、歌はそれなりに歌えたんだろうか。そうらしいが。 |
本人はオペラをジャジャーンと披露したかったのに、各国で受けたの |
は「日本の歌」だった。 |
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ご本人は1898-1976年、77歳まで生きられた。 |
大阪生まれだけれど、琵琶芸者の母親に連れられて九州などを中心 |
に転々としたので、幼少時からも関西弁はあまり喋ってなかったかも |
なぁ。 |
さてさて、もっと藤原歌劇団での活動がわかるのかと思ったら、あとは |
“歌に生き恋に生き”の“恋”のほうの叙述がメインになってしまった、 |
それもいい年になるまで。経営や運営については‘向いていなかった’ |
という表現でほぼおしまい。 |
そして壮年/老年については、駆け足の中であたふたと伝記は閉じら |
れてしまった。晩年の母親がかしこまって訪れたこととか、母親との関 |
係性が義江に与えた影響といった事柄が、義江の晩年の思いに濃く |
色づけされていたように書かれている。 |
ワタシは、オペラの知識はそんなにないんだけれど、これでは音楽に |
関しては欲求不満だな。音楽好きはたいていそうじゃないだろうか。 |
今風なら大いにモテたイケメンオペラ歌手とでもいうところ。中年近くま |
では十分に‘伝記’で、この著者の考える義江の人となり的なものは |
わかったように思うけれど、「歌声」がよく聞こえてこなかった感じなの |
がちょっと惜しい気がする。 |
大変であったはずの歌劇団の運営や歌手としての諸々は、この本で |
はもともと焦点を当てる気はなかったみたいですけどね。
| ※1934年(昭和9年)創設、2009年(平成21年)に創立75年を迎えた | 日本最古かつ本格的な国産オペラ団体として、日本初演を含む80 | 作品近くのオペラを上演。初代総監督・藤原義江は38年間同歌劇 | 団を統率した。 | 1981年(昭和56年)、日本オペラ協会と合併統合して財団法人日 | 本オペラ振興会となる。「藤原歌劇団」の名称は西洋オペラの公演 | 事業名としてのみ残されている・・・ (Wikiから) |
パソコンの具合が悪くて、アップはお休みしてました。 | パソコンはともかく、本人はいたって元気です。 |
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