休みには中古屋のはしごⅢ

基本音楽鑑賞のつもり。ほかに映画・本・日記的なもの・ペットなど。

『おらおらでひとりいぐも』 若竹千佐子


20190328(了)
『おらおらでひとりいぐも』 若竹千佐子

   小説/文藝春秋・三月特別号/第158回 芥川賞発表
   (2018年3月1日発行)
   <★★★★>
イメージ 1


先に読んだ芥川賞作品(3/28アップ)は、ボケをかましたような話を書くたい
へんな「知」の持ち主、という感じだったんでした。同時受賞二作目は・・・
女性性だと思う。
女性のための時間・・・
かなり前に自分のすべてだった夫を失った75歳のばあさん(桃子さん)が、い
ろんなものから自由になり、ようやく人生や己に目覚める様子を描いている
という、作者未経験の老い、ある種自伝の先き食いふう。
大半は、初秋、自宅から夫の墓所に歩いて向かう道すがらのこと。
これでもかと自分を剥いて剥いて剥きまくる。いろんな自分を、それこそ山ほ
ど見つける。ぼけが始まってるかも、というニュアンスも込めて?
   あいやぁ、おらの頭このごろ、なんぼかおかしくなってきたんでねべが
   どうすっぺぇ、この先ひとりで、何如にすべがぁ
   何如にもかじょにもしかたながっぺぇ
   てしたごどねでば、なにそれぐれ
   だいじょぶだ、おめには、おらがついでっから。おめとおらは最後まで
   一緒だがら
   あいやぁ、そういうおめは誰なのよ
   決まってっぺだら。おらだば、おめだ。おめだば、おらだ
と始まる自問自答なんだが、なあに、これが全然大丈夫でね、突き抜けたみ
たいに陽気に自分という玉葱の皮むきと認識の意味付け(大好き)をやる。
霊園の坂を上る脚は棒のよう。でも一歩一歩認識は深まり、桃子さんは高揚
感すら覚える。
ほんの75歳、これからのひとなのであって、まだまだ自分の生は終わらない。
哀しさ寂しさとは訣別して、老いも勉強だと、前を向いている。八角山の臨め
る場所で、大事なところは、本来の自分と切っても切れない拘りの言葉、東北
弁でね。
全篇これぬけぬけと自分探しをやるだけのことのよう。 モグラ叩き’みたい
に(まぁ叩くんじゃない、押すというイメージだけど)、一カ所を押すとほかのと
ころがプッと出て、そこを押すとまた別のところがプッと出てくるといった状態。
なのに一筆書きのよう(!)に読まされちまいました。
生き続けるための長い宣言文、という言い方もできる。
こんなこと書いちゃいけないのかもしれませんが、女でなきゃあこんなこと―
自由―なんかにゃなりませんて。ましてや明るくなんて。概して男(夫?)だ
と、たたらを踏んでも手も振らず、ただ暗くなるだけだろうし、この歳での自
分探しはひどくメンドクサイ気がしがちなんじゃないか。
女性のための時間・・・なんじゃないのかなぁ、と・・・
(桃子さんが女性の、ワタシが男性の、代表ってんじゃないですが、でも結
局、、、、そうやって読んでるのかも。)
最後は、桃子さん、孫が訪れたことで、高揚感をともなったたくさんの認識に、
水を差されたような塩梅の締めくくりが置いてある・・・どないなんやろ。いい
閉じ方だったかもしれない。読む側を(も)ほっとさせてくれた気がします。
前回の『百年泥』と同じように、結局のところ、‘教養’のある人間が書いてい
るという感じを受けました。とはいえ、作者とメインキャラとの距離感が違って、
うんと近いようなのが、この際、好ましいと思えました。
(アップするの、なんか恥ずかしい感想文です)