休みには中古屋のはしごⅢ

基本音楽鑑賞のつもり。ほかに映画・本・日記的なもの・ペットなど。

寛容への祈り

2/27(金)
朝日2月26日、論壇時評 から
   寛容への祈り 「怪物」は日常の中にいる(作家 高橋源一郎
湯川遥菜さんについて言及されることが少ないが、なぜだ。という疑問からスタ
ートしている。
後藤健二さんのいくつかの本、その他ジャーナリストたちの最近猛烈に増えた
論考をいくつか引きつつ、タイトルを、例えばISという「怪物」とその状況を説明
しようと試みる。
でも、もともとねじくれてしまった人間の世界を考えると、「怪物」はそこここにあ
るもの、いるもの、と考えるしかないのであって、それは明らかに「非知性主義」
でなく、間違いなくある種の「知性主義」なんだ、それもどんどん成長しているみ
たいだ、と言っているよう。
ほとんど匙を投げている。
「それ」は成長し続けているものの、昔の人も同じようなことをちゃんとわかって
いて、今に通じる言葉を残していると締める。
250年ちょっと前に、一人の新教徒が、‘宗教的な狂信’によって冤罪で処刑さ
れたことに深く憐れみを感じたヴォルテールが書き残した『寛容論』の一節・・・
  「我々の虚弱な肉体を包む衣服、どれをとっても完全でないわれわれの言語、
  すべて滑稽なわれわれの習慣、それぞれ不備なわれわれの法律、それぞれ
  がばかげているわれわれの見解、われわれの目には違いがあるように思え
  ても、あなたの目から見ればなんら変わるところのない、われわれ各人の状
  態、それらのあいだにあるささやかな相違が、また『人間』と呼ばれる微小な
  存在に区別をつけているこうした一切のささやかな微妙な差が、憎悪と迫害
  の口火にならぬようお計らいください」
これはお祈りやから、下線を付けた‘あなた’は、一応神様ということやね。
政治家でもエコノミストでもない、文人高橋源一郎さんの締めの言葉。
あんまりどころか、なんの力もない、そもそも締めになっていないと思うが、正直
な感想っを言わせてもらうなら、これ以上は、別次元の何かが必要なんじゃない
かというところです。途中をすっとばしたから、これじゃ余計ひどいものになっちゃ
ったけど、まぁ、読んだワタシだって結局同じお祈りをするしかない。限界の感じ
です。
 
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                           (20150223 ののちゃん