休みには中古屋のはしごⅢ

基本音楽鑑賞のつもり。ほかに映画・本・日記的なもの・ペットなど。

新聞の書評に引っかかって

3/24(月) 日記系です。
書評もむずかしいよなあ・・・、評と紹介の両面。
ワタシには書評は、自分にとって面白そうな本を探すためのもの。日曜の新聞に紹
介される程度じゃ大した数にもならんが、もちろんそれで十分。アサヒではエンタテ
インメント系がちょっと少ない気もするけど、出版数比からすればこんなもんだろう。
書評自体が面白くて、本のほうはこれで満足して読まないというのが、結果的には
大半で、じゃあ書評ってナニよってことになる。
論旨やストーリーなんかを説明しきってしまえばもちろんまずいので、いかに紹介
するか。書評者が楽しんだものは紹介に熱が入ってよくなかったり、面白くもないの
に、やたら面白そうに紹介されてしまったもんで、読んだほうががっかりしたり。
読まないで済ませるためのものという面が、やっぱり大きいのだろう、と書いておい
て、疑問符をつけておく。
遅読のワタシには、読んでがっかりは困るので、意外と切実。
昨日の新聞の書評から、女性もの二題。
女は笑顔で殴りあう ―― マウンティング女子の実態
                      瀧波ユカリ・犬山紙子〈著〉 筑摩書房/1260円
   ~女同士で共生するための作法
   カフェレストランの女子会で、あるいは学校や職場で談笑する女たち。だが笑顔
  の下では、血みどろの戦争が繰り広げられている……。相手より下に見られたく
  ない、という心理は男女問わず持っている。だが、とかく女同士は複雑だ。「善意」
  でコーティングされたことばや態度で、決して自分は悪者になることなく相手を貶
  め、自らの優位性を確保する。本書はこれを「マウンティング」と呼ぶ。本来、動物
  が自分の優位性を示すための行為だが、これを女同士の共生の作法に見出した
  のは絶妙な比喩だ。
   身につまされるシチュエーションの数々に、爆笑しつつ一抹の寂寥感も感じた。
  私たちは、なぜこんなさもしい行為をせねばならないのだろう。男性ならば、社会
  的地位や所得など客観的な指標で勝負できる資源が、女性には乏しいというの
  も一因か。笑顔で殴りあうがごときこの女の性。殺し合いを避けるための「知恵」
  であり、「知恵者ゆえの悲劇」との達観に感服。
                               評・水無田気流(詩人・社会学者)
どうですかね。
読まなくても分かるよね。(この‘ね’の連発がカミサンの真似のようで、いかにも安
直でイカン!)
女性でも年齢などによって受け取り方、興味の持ち方は異なるとは思うが、男性も
少なくともオッサンになれば、いまさら掘下げて読んでみたいとは思わない。(たい
てい、もうわかってきていてウンザリだと想像する。)
というか、読んでこれ以上のことが付け加えられそうな気がしないもん。きっと、たく
さんのシチュエーションが紹介されるんだ。クワバラ・・・
そういうわけで、この評はたぶん説明出来過ぎ、総括され過ぎなんじゃないか。でも
ほかにどういう事が書けるのかしらん。
つぎは、これは短編小説らしい。著者は30歳代半ば。
英子の森
                            松田青子〈著〉 河出書房新社/1575円
   ~〈わたし〉は空虚な器なのか
   〈大人になる〉とは、自分の前に広がる無数の可能性のほとんどを諦めることだ。
  だが、商品であれサービスであれ情報であれ現代社会が提示するおびただしい  
  選択肢は、自分は万能細胞のようにまだ何にでもなりうるのではないかと幻想・
  妄想させる。松田青子は誰もが抱えるこの幼児性、未成熟への個室を意地悪な
  ほど浮き彫りにする。
   暗闇で職業当てゲームをする人たちを描いた短編「わたしはお医者さま?」で
  は、各人は医者や消防士などの既存の職業に飽き足らず、〈ペンギンナデ〉とか
  〈切手専門の額装屋〉といった自分が本当になりたい職業〈?〉を紙に書き、自ら掲
  げる。それらは自分だけのユニークな「夢の職業」に思える。だが紙を照らす懐中
  電灯が渡されるたびに、受け取った当人が「わたしは……」と、一様にその夢を語
  りだす。結局どの〈わたし〉も己の現実を受け入れられないという点で、懐中電灯
  と同様に交換可能なアイテムにすぎないのである。
   では我々はどこに自我の拠り所を求めればよいのか。表題作の主人公の英子
  にとっては英語である。そんな娘を、母・高崎夫人は応援する。英語は娘が、自分
  や姑のような主婦としての一生から逃れるための手段なのだ、と。だが短期留学
  1年程度の彼女くらいの英語力の人間は掃いて捨てるほどいる。英子の周囲には
  正規社員にはなれないが、英語を使うしごとを諦めきれない〈痛い〉同類ばかりだ。
   作中で英子が訪れる「森」とは、各人物たちの夢や無意識の世界なのだろう。そ
  れが人工的な色調や模様で彩られたとことん薄っぺらい場所なのが不気味であ
  る。
   〈わたし〉とは、メディアやネット空間を満たす紋切り型の言葉や欲望を載せた空
  疎な器に過ぎないのか。現代社会の表層をそっくりコピペして突きつけられたよう
  な居心地の悪さ。もちろん松田青子は確信犯である。
                          評・小野正嗣(作家・明治学院大学准教授)
この本やっぱり読みたいとは思わない。
これはワタシが女でないからではなく、今のワタシには‘合わない’としか言いようがな
い。青臭いと言って退ける前に、ね。でも実はこの評わかりやすいと思って読んだ。
この短編小説、今の言葉で書かれていて、でも間違いなく普遍的問題のよう。
評者によって問題点がきれいに整理整頓されているようで、ストレートな短編集みた
いにも取れるが、著者にはごく最近まで、あるいは今の今だって、切実極まりない内
容でもあったものだろう。それを評者は「確信犯」だと書いている。それでもってあえ
て薄っぺらな実存を描き得ていると、少々持ち上げているような気もするが、、、
評のほうが勇み足しているかもしれないと思わぬでもない。
ワタシ、間違いなく「暇」してますな。
面白そうな本は別に2,3見つけてしまってたのに。